弄花香満衣(はなをろうすればかころもにみつ)
茶道・書道・室礼(日本の節句に因んだ和のインテリアコーディネイト)・禅などを通して和の文化を楽しく学ぼう!という趣旨の会です。和の雰囲気に浸りたい!穏やかな静寂のひと時を感じたい。大人のたしなみを少し身に着けたい!そんな方たちの集まる会です。
又、この会の名は〝掬水月在手 弄花香満衣”(みずをきくすればつきてにあり はなをろうすればかころもにみつ)という禅の句より頂きました。某書にはこの様にございます…
この句は中国の于良史(うりょうし)という詩人の「春山夜月」と題する詩の中の二句で、表面の意味は水を両手にすくえば高く空に輝く月が期せずしてわが手中にあり、花を手折ればその芳香がいつのまにかわが衣にしみこむように、何事もひたすらに精進努力して退転することなければ、その妙所は自然にいつかわがものとなるものである。また人間というものはその交わる友達や環境、或いは玩弄する物によっていつの間にか影響され、その品性が高尚にもなれば下品にもなる。だからつとめて清浄で上品なものに親近し、不浄で下品なものから遠ざかるように心すべきである。とあります。
そして少し難しい禅の解釈ではこうあります。水を両手にすくえばそのわずかな水にも天上の月の光・真理の光が影を宿しており、一茎の花を手折ればそこにも宇宙の大生命の香りが満ち溢れている。一切の存在はみな宇宙の大生命を宿し、絶対の真理・仏教のいわゆる如の顕現でないものはない。悟って眺めてみれば仏はいつでもどこでもあらわれている。また禅の最も尊ぶものは三昧ということである。主客不二・物我一如、見る主観と見られる客観とが二にして二にならず、我と物、心と堺とが一枚になりきることであり、この二句は「水を掬すれば、掬する我と掬される水とが不二になり、さらにいえば我がすっかり水になりきって月光をいっぱいにうつし、また花を手折れば花これ我、我これ花と一枚になりきって全身に芳香を放っている」という意味で禅の重んずる主客不二・仏我一如の境を美しく表現したもの。とあります。
茶道を通して多くの人や物とふれあい、我これ花と一枚になりきって全身から芳香を放ってみませんか?